著:小林惠智(伊豆ユネスコクラブ代表幹事)
6-AUG.,2026 朝の脳トレより
⚫︎教育という言葉を最上位概念に置いて考えるなら、その下には大きく「知育」「徳育」「体育」があるだろう。
⚫︎「知育」とは、単に知識を記憶することではない。知識を得、それを組み合わせ、疑い、考え、自分なりの答えを導き出す方法を学ぶことである。「哲学」も、本来はここに含まれる。「徳育」とは、社会の中で何を善とし、何を悪とするのかを考え、自らの判断基準を形成していくことである。そして「体育」とは、健康な身体を基盤として、身体を通じてさまざまな技能を獲得していくことである。
⚫︎換言すれば、「頭に教える、心に教える、体に教える」という三つの教育である。
しかし、この三つは、本当に別々のものなのだろうか。
⚫︎仏教思想、とりわけ禅の立場から人間を観れば、「心身一如」であり、「心頭一如」である。頭で理解したこと、心で感じたこと、身体で体得したことは、本来切り離せない。一人の人間の中で重なり合い、互いに影響しながら、その人の人格をつくっていく。
そう考えるならば、学校教育の基本は、やはり「全人教育」でなければならないだろう。
⚫︎ところが、私たちは今、教育の歴史における大きな転換点に立っている。
それは、「AI(人工知能)の登場であるが、人工頭脳ではない。
⚫︎これまで「学校」は、知識を持つ教師が、まだ知識を持たない生徒に教えるという構造を基本としてきた。しかしAIは、膨大な知識を瞬時に検索し、整理し、説明し、比較し、場合によっては一人ひとりの理解度に応じて教えることまで可能にし始めた。
⚫︎そうなると、「知識を教える」という教師の役割の相当部分は、人工知能によって代替、あるいは補完されていくだろう。
しかし、それは教師が不要になるということではなく、むしろ逆である。
⚫︎知識を教えることの価値が相対的に小さくなるほど、「人間を育てる」という教育本来の仕事が、より鮮明になるからである。
⚫︎私は、「これからの教育」には、二人の師が必要になると考えている。
⚫︎一人は「人工の師」である。
AIは、世界中に蓄積された知識を提供し、異なる考え方を比較し、問いを深める手助けをしてくれる。生徒の能力や関心に応じて学習方法を変えることもできるだろう。知育の領域において、AIは人類史上最も強力な師の一人になり得る。
⚫︎もう一人は「自然の師」である。
ここでいう「自然」とは、山や川、植物や動物だけを意味しない。「人間もまた自然の一部」である。友人との対話、教師との衝突、失敗、成功、病気、老い、誕生や死、暑さや寒さ、土に触れること、植物を育てること、動物と接すること。そのすべてが人間を育てる教師となるのである。
⚫︎AIは「桜とは何か」を何万字でも説明できる。
しかし、春の日に一本の桜の木の下に立ち、風に散る花びらを身体で受け止めたときに何を感じるかまでは、本人の体験に代わって経験することは決してできない。
⚫︎ここに、AI時代の学校教育を考える重要な鍵があるように思う。
これからの学校は、知識を大量に伝達する場所から、「人工の師」と「自然の師」を出会わせる場所へ変わっていくのではないだろうか。
⚫︎教室ではAIと対話し、世界の知識に触れる。一方で教室を出て、森を歩き、土に触れ、人と協働し、失敗し、葛藤する。そして再びAIに問い、自分自身にも問い返す。人工から学び、自然から学び、人間から学び、最後には自分自身から学ぶ。
⚫︎そこでは教師の役割も変わる。
「答えを知っている人」から、「問いを生み出す人」へ。「教える人」から、「学ぶ環境をつくる人」へ。
そして何より、子どもたちが人工の知性に依存するのではなく、それを自在に使いながら、自ら考え、自ら判断し、自ら行動できる人間へ成長することを支える人へである。
⚫︎AI時代だからこそ、学校教育の目的を改めて問わなければならない。
人間は、どれほど多くのことを知っているかによってのみ、人間になるのではない。「何を問い、何を感じ、何を選び」、どのように生きるか。その総体として人間は育っていくのである。
⚫︎ならば、AI時代の教育とは、人工知能を学校に導入することではない。
「人工の師」と「自然の師」を協働させ、その間に立って、自ら学び続ける人間を育てることこそが教師の役割である。
⚫︎そこにこそ「知育・徳育・体育」を再び一つに結び直した、二十一世紀の「全人教育」の姿が見えてくるのではないだろうか。
2026年8月6日 小林惠智 (伊豆ユネスコクラブ代表幹事)