『非戦論と教育改革』

問題提起

今日の社会経営を支える政治思想・経済思想・教育思想は、本来、人類の共生を目指すべきである。にもかかわらず、現実には「自我」に根差した欲望と過剰な競争主義が支配してきた。その結果、金融経済は等価交換を逸脱し、商品の生産と消費の不均衡から不労所得の構造を生み出し、収益格差・教育格差・資源格差・身分格差が固定化されている。些細な競争が重大な紛争へと転化し、ついには戦争を引き起こしている。

現代の危機

現代に再び「世界大戦」が勃発すれば、核兵器の応酬によって人類は即座に地球滅亡の危機に直面する。これは抽象的な仮定ではなく、核兵器という現実がもたらす不可避の可能性である。核兵器の存在そのものが、戦争を局地的現象から人類史全体の終焉へと直結させている。ゆえに、人類は戦争を肯定してはならない。

戦争の歴史的評価

戦争は古代には他国の領土・資源の奪取、中世には宗教権威の拡張、近代には国家や帝国の拡張の道具、現代にはイデオロギーや経済・技術を巡る抗争として繰り返されてきた。確かに戦争は科学技術や社会制度の進展を促したが、それは多くの流血を媒介とした「歪んだ進化」であり、「文明の母」と称する史観は倫理的に退けられるべきである。

経済合理性の虚構

しばしば戦争は“経済合理性”を帯びるものとして理解されてきた。軍需産業の膨張や戦後復興の繁栄は短期的利益をもたらしたが、長期的には人材を失わせ、文化を破壊し、国際的不信を増幅させた。戦争は人類史上最大の浪費であり、経済合理性という装いは虚構にすぎない。戦争を利益の生産装置とみなす思想は退廃であり、克服されねばならない。

宗教戦争と仏教の非戦論

歴史上、戦争を最も強固に正当化したのは宗教であった。十字軍、ジハード、異端審問は「神の名」のもとに人間を殺戮した。しかし宗教が本来「救済」を目的とする以上、その名において命を奪うことは根源的矛盾である。言い換えれば、宗教戦争とは宗教を装った政治的暴力に他ならない。この点で仏教は稀有である。釈尊は「殺すなかれ」を徹底して説き、因果循環と縁起の思想は、すべての存在が相互依存することを明らかにした。他者を敵とする論理は、仏教思想において成立し得ない。仏教は非戦の普遍倫理を提供する基盤を有する宗教である。

21世紀の新しい戦争形態

今日の戦争は領土奪取を超えて変容している。サイバー攻撃、金融制裁、ドローン兵器、AI戦略、気候変動や資源不足を巡る「環境戦争」が進行している。これらは不可視の戦争として人類の日常に浸透し、倫理を曖昧にし、人間の尊厳を脅かす。形態が変わろうとも、戦争は戦争であり、非戦でなければならない。

非戦社会構築の唯一の手段=教育改革

戦争を廃絶することは理想論ではなく、人類の存続条件である。そのためには教育改革が不可欠である。経済的転換や制度刷新も、教育によって非戦の意識を涵養しなければ持続し得ない。市民一人ひとりの倫理観を育む教育なくして、軍需から平和産業への移行も、多極化世界に対応した安全保障体制の構築も、科学技術の共生利用も根付かない。非戦の教育を社会基盤とすることこそ、非戦社会を築く唯一の道である。

結論

戦争は人類の選択肢ではなく、人類滅亡の危機そのものである。非戦は理想主義ではなく、倫理的必然である。宗教戦争の過ちを超え、仏教の非戦思想を普遍的倫理へと昇華し、教育改革を通じて「競争文化から共創文化へ」移行することこそ、人類文明に課された使命である。人類は非戦を選び続けるべきであり、それが未来を拓く唯一の道である。

2025年9月22日 小林惠智 

 

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